深い河

読書は明らかに体系的にすべきだった。そうしないと記憶の容量の無駄になった。たとえば夏目の『吾輩は猫である』を読んだら、それに対する注釈や解説をしている本や論文を五冊くらい読んだ方がいい。本はどれだけ多く読んでも「知識」しか溜まらない。これでは意味がない。多角的に一つのものに当たって初めて「見識」になる。これには汎用性がある。どこで暮らして、なにを見たとしても。

(中略)

そして最後に。

寂しい時は寂しいで、ちゃんと人に会って、甘えるべきだった。思い出は、恥ずかしいことをしないと作れないものだ。今になって知った。一言で言うなら、もっと恥をかけばよかった。

―『いつか別れる、でもそれは今日ではない』 037 学生時代について、本気で後悔してる事 / F

ヒカルのDEEP RIVER遠藤周作の深い河にインスパイアされてる、という記事を目にして、深い河を読み始めた。私の中の予感を、表わす歌、、

それで気づいたのは、小説めいたものを少し書いてみたせいか、あ、良質だなぁと感じるものと、全然そうでないものがわかるようになってきてたってこと。

読み終わったら、深い河の解説本群を読んでみようかな、なんて、珍しいこと考えてる。

何かを探し、何かに飢えて、食い荒らすようにいろんなジャンルを横断してきた。でも、そろそろ、大切なものを見つけたら、1つに腰を据えて何度も楽しむような姿勢を大切にしてもいいのかな・・・と。新しい出会いや、Fのエッセイを読みながら、気持ちが本格的に固まってきた。

それは時間や経験を限定するけど、同時に私を規定するものでも、あるのだから。

わたしにとって、大切なものが、私の中に静かに深く沈澱する。

私を振ると、それが混ざり合って、いろんな色になる、、

それで、いいのかもしれない。

もちろん今までのアプローチも、何もかも必要なことではあったけど、私が探してたのは、探して見つかるものじゃなかったのかもしれない。それは、青い鳥みたいなもんで。

いままでやってきたこと、時間をかけてきた対象を捨てること。

探すより、創る。

そう、新しい方法で。

牡羊座の終焉と、牡牛座領域への旅の始まり、、

簡単に書けば、自分を知るために走っていた時期が終わり、五感の為に時間をゆっくり無駄にできるようになってきた、っていう感じかな。

うん。たいせつにしたいな。この感じ。