井伊直虎、井伊領川名村福満寺に洪鐘を寄進

直虎は永禄8(1566)年9月15日、井伊家菩提寺である龍潭寺南渓和尚宛に「龍潭寺寄進状」を発給している。

井伊領内の農村では、相次ぐ戦に多くの若者が徴兵されて戦死したため、田畑は荒れ、農民の生活は困窮していた。

農民は高利貸しの商人から田畑を抵当に借金をしたが、返済の目処は立たず、困った農民は団結して徳政令の発布を駿河今川氏真に訴えた。

永禄9(1567)年、氏真は「井伊谷徳政」を発布した。しかし直虎はこの徳政令を拒否し続ける。

永禄11(1569)年11月、ついに氏真は家老関口氏経井伊谷に差し向け徳政令を実施するという文書に署名をさせたが、永禄9(1567)年11月、直虎は井伊領川名村福満寺に曾祖父直平の追善供養のために洪鐘を寄進する。

洪鐘の銘には、直虎と並んで願主として瀬戸四郎右衛門、井伊領で名の知られた豪商瀬戸方久の名がある。

永禄に入り、井伊家は相次ぐ出陣命令で莫大な戦費を消耗し、経済的危機に見舞われ井伊家を支えてきたのが、瀬戸方久で商人方久の損害を少なくするため、徳政令を凍結し続けたとの説が今回の話しに使われたのだろう。